辺見庸が、8月31日の日経新聞夕刊のなかで言っていることが、とても面白い。
■震災後の文学、文化を取り巻く状況には、ある種の危うさ、いかがわしさを感じると明かす。 いま、詩に限らず、表現の多くが震災を大変な悲劇としてとらえ、悼むことに多大なエネルギーを費やしている。無理からぬ成り行きだろうが、僕は薄気味悪さを覚える。 坂口安吾は空襲の破壊の美を書いた。中山啓という詩人は関東大震災で2つに折れたビルの様子を「愉快」だとよんだ。悼み、悲しむ姿勢とは対極にある、そのような言葉を、今日受けいれる自由な空気があるか。書こうとする作家や詩人の存在があるか。恐らくない。そのことに危うさを感じる。 空襲が「破壊の美」で、関東大震災で折れたビルが「愉快」――
斜め45度な視点は、理性的にはひどくくさいけど、感情的にはうらやましい。
いまこんなアウトローな表現をしたらどうなる?
少なくとも「死の町」といった経産相は辞任した。ケアレスな発言とはいえ、辞任にいたったのは、世相の不寛容さゆえかな。
それでこの文章は、こんな感じで終わる。
国難が叫ばれ、連携や絆、地域、国家を重んじる時代には、往々にして、特異な個人が排除される。それだけはあってはならない、いま必要なのは手に手をとって「上を向いて歩こう」を歌うことじゃない。個人がありていに話す空間、新しい知をつくることが希望に至る一筋の道だ。 昨日、誰もいないレイトショーで、「コクリコ坂から」を見た。
カルチェラタンに見る世相の縮図。少なくとも自分は、みんなが同じ方を向くのが小気味よい。「いい子たれ」教育を受けてきたから?
アウトローはうらやましくも、自分はそこにはいけない。勇気がないから。意気地がないから。
でも辺見庸の言う「薄気味悪さ」というのは、きっと正しいんだろうな。
モラルだ、道徳だ、ってのはとても大事だけど、そんな暑苦しい着物をいったん脱ぎ捨てて。
戦後のアナロジーからすると、「堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ(新堕落論)」という坂口安吾の洞察は、いまにも通じるのかもね。