「原発事故はいつか起こる。確率が低くても、どこかの世代で起こる。
”次の世代にツケを回さない”というサステナブルな生き方が求められている。いまの原発の安全性は数十年のレベル、これを数百年のレベルにしないとだめだ。」
・・・と、その理屈はよく分かる。
とはいえ、ぼくたちが生きている時代は「いま」だ。
数世代先のリスクを声高に叫んだところで、結局は自分がイチバンかわいい。サステナブルという言葉を掲げられても、机の上のきれいごとに聞こえる。
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四年前のブログに、ちょうど同じようなことを書いた。(
ココ)
そのとき思ったのは、だけど自分の子どもが育ち、孫が産まれたときはどうだろう? 「この子たちのために・・・」という感情は、”自分がイチバンかわいい”を通り越し、一個・二個下の世代まで大事に感じる思いを生み出すのではないか。
自分の世代さえよければというエゴを脱却させるものは、このような親子愛かもしれない。
そのときはそれで納得した。
けれどもサステナブルとなったら、一個・二個下の世代でなく、さらに一般化した議論をしなくてはならない。n世代の問題だけど、帰納法では証明できない。
ならばここでも、やはりキーワードは「愛」だろうか? 世代によらない愛――それはなんなんだ!? 人間愛? 博愛? それがなんであれ、その愛は「自分がイチバンかわいい」というエゴに打ち勝てるのか!?
・・・勝てないんじゃないかな。
少なくとも理想論では、この問題は解決しなさそうだ。