直木賞受賞作。その中ほどにある一章が「三毒の焔」。
ここに書いてあるエピソードが、まことに深い。
禅僧である宗陳は、豊臣秀吉や石田三成を目の敵にしている。
彼らの血気盛んな(いまふうに言えばギラギラした)人柄を評して、下のように言う。
――まったく、人の世には、三毒の焔が燃えさかっておる。
三毒は、仏法が説く害毒で、貪欲、瞋恚(しんち)、愚痴、すなわち、むさぼり、いかり、おろかさの三つである。
つらつら思えば、世の中のわざわいや有為転変、人の浮き沈みは、ほとんどこの三つの毒で説明がつく。人が道を誤るのは、たいていこの三毒が原因だ。
秀吉が天下人になれたのは、三毒が人並み以上に強いからだ、と宗陳は言う。
そして、三毒に冒されすぎた俗人は、哀れで微笑ましい、とも言う。
だが、そう評する宗陳の心は、三毒の裏返しに他ならない。
三毒でおとしめる本人こそ、三毒の権化である。
――わしは、なにを思い上がっていたのか。
秀吉や、三成が、毒に冒されていると見下していたが、その実、毒に満ちていたのは、ほかでもない、自分自身ではないか。そもそも、人を見下すなどということは、おろかさの毒のなせるわざではないか――。
長明の無常観は、世知辛い社会のオアシスだ。
老荘の考え方も、周期的にブームになる。
これらはそろって、三毒を戒める。
だけど、やれ無常、やれ無欲といっても、それは一時のまどいを酒で忘れるようなもの。
そんな試合放棄の先には、何も生まれない。(
→)
そして利休は、宗陳に諭す。
「人は、だれしも毒をもっておりましょう。毒あればこそ、生きる力も湧いてくるのではありますまいか」・・・
「肝要なのは、毒をいかに、志にまで高めるかではありますまいか。高きをめざして貪り、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めばいかがでございましょう」
三毒は相手に向けるものではない。自分に対して向けるもの。
そうであればこそ、毒が回らないよう、努力するしかない。
利休にたずねよ
山本 兼一