世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい
森 達也
著者の森達也氏は、オウムをめぐるドキュメンタリー映画「A」「A2」をつくった。
オウム信者に焦点を当てた切り口は、「オウム擁護の映画」と批判されたようだ。映画を見ていないから、詳しくは語れない。(TSUTAYAで借りたから、もうすぐ見る)
ただ、本の内容には深く共感した。タイトル「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」からして、なんだか心に響くものがある。キーワードは「相転移」と「想像力」だ。
オウムの信者といっても、一人ひとりはいたって善良な人である。しかし、一が多となったとき、善良という感情が化ける。
人は集団となったときにこの相転移を起こしやすい。一人称単数の主語を失うからだ。「俺」や「私」が「我々」や「国家」などの集合代名詞に置き換わるとき、人は優しいままで限りなく残虐になれるのだ。
「俺」が「我々」になること。それがオウムを引き起こす。
そして「私」が「国家」にまで昇華されることで、9・11に対するアメリカの報復が起こった。
アフガニスタンに暮らす人々の日々の営みにほんの少しでも思いを馳せれば、誤爆が頻発する空爆などできないはずだ。ガザ地区やヨルダン川西岸で戦争の砲撃に吹き飛ばされるパレスチナ市民たちの喜怒哀楽を思う気持ちが少しでも残っていれば、西側諸国はもっと真剣に事態介入を目指すはずだ。
一人ひとりの人間に思いを馳せる。
友達が風邪を引いたときにお見舞いに行き、友人の就職が決まったときにともに喜び、母の日にプレゼントを贈る。
そんな素朴な気持ちを失わせるのが、相転移というわけか。
想像力を失った思考停止状態では、世界を「善」と「悪」で切り取りがちである。昨今の「靖国」上映の論調も、ともするとこの落とし穴にはまりかねない。
だけど、世界はそんなに簡単でない。
多彩な価値観が入り混じった人間がたくさんいるから、こんなに面白いのではないだろうか。
ここのところ、自虐史観で日本人は誇りを失ったと言う人が増えてきた。彼らは同時にこう言って嘆く。祖国のために戦った英霊たちを戦後の日本人は犬死にだと愚弄してきたと。バカじゃないか。天皇陛下万歳と叫びながら敵艦に激突した英霊たちを、僕は切ないくらいに愛おしいと思い、同時に馬鹿げた犬死にだと思う。二者択一ではない。世界はそんなに薄くない。人はそんなに単純ではない。そもそも矛盾と曖昧さを抱えた生きものだ。だからこそこの世界は豊かなのだ。
複雑なものは、複雑なまま、話をしようじゃないか。
答えがひとつに決まらなくたって、とことんまで語り合う。その語らいが、僕らの心に実りの豊作をもたらす。
うん、本当にそうだと思う。