テレビを見ていたら、小宮山宏総長が「まずはしっかりとした専門性を持ちなさい」と語っていた。「一つのことをしっかりやらないと、できの悪い評論家になってしまう」とばっさり切り捨てたあたり、二・三の例を頭に浮かべながら、しきりとうなずいてしまう。
そういえばその昔、とくに就職活動の時期に、似たようなことを考え、「化学」という学問のすごさを垣間見た覚えがある。
身近な学問では、物理・化学・生物などがある。その方法論(哲学)となる数学もあるし、それらが実用的に展開された学問は、環境学や心理学など、それこそ山ほどある。
ただそんな中にあって、化学というのは「とてもいいサイズ」の学問なのだ。
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生物という学問は好きだ。生物の教科書を読んでいたり、専攻をしている研究者に話を聞くと、私たちの身体がいかに大胆かつ精巧に創られているかがわかってくる。DNAをめぐるセントラルドグマの緻密さを聞くと、思わずその裏にひそむ進化の歴史か、神の存在に目を走らせてしまう。
ただ、勉強していると、なぜだか必ず行き詰まる。「この酵素がここに結合すると、ここの構造がこう変化し・・・」と説明されると、その精巧さに目をみはりながらも「ふーん」という感動で終わってしまう。「このスイッチを押すと機械は動き出します」と言われてるような感じで、「どうやってその機械が動いているのか?」が知りたくなるのだ。
といって物理を勉強していても、頭が痛くなる。
「スカイダイビングは、自然落下運動と空気抵抗が逆に働きあって、平衡状態に達するんだよ」というようなニュートン力学はイメージができて大好きだが、「光は波動と粒子の性質を持つ」とか「空間は曲がる」と言われても、なにがなんやら。量子論や相対論を勉強してきたが、どうも性に合わない。イメージできないものをスパリと料理する、そんな数式の鮮やかさに感心しつつ、一緒に自分の限界も感じてしまう。
その点、化学は「いいサイズ」なのだ。
分子は目に見えなくても、何とかイメージができる。それでいて、量子論などを持ち出さずとも、大体のことは説明できる。
「この反応が行くのは、この分子とこの分子が衝突するから」と説明されれば、頭の中でボールがぶつかる絵が想像されるし、「この反応が起こるから、酵素の構造がこう変わるんだよ」と説明されると、生物の精巧さにも、さらに合点がいく。
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しばらくの間、化学をやってきて、喜んだときも、悔しかったときも、幾日も家に帰らなかったり、寝ずっぱりでふらふらしたこともあった。けれど、そのおかげで、それなりに根っこを張り巡らすことはできたし、これからもさらに根付かせていきたい。
自分はきっと、ほどほどのところで研究者を辞めてしまうだろうが、それでも一生涯、なんらかの形で科学に携わると思う。いつかは「グリニャール反応」とか「エステル化反応」など忘れる日も来るのだろう。それでも、長いこと養ってきた「化学的科学観」というちょうどよいサイズの望遠鏡は、自分の立ち位置を決める根っことして、いつまでも財産として残ってくれるに違いない。