第三弾は夏目漱石の『草枕』。読むといっても、今回は文字通りの音読(・・・疲れた)。音に耐えうる作品は、そうない。
草枕
夏目 漱石
言葉でまとめきれない後味ゆえ、散逸な覚え書き。(引用の漢字は適当に)
一
葛湯を練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸に手応えがないものだ。そこを辛抱すると、ようやく粘着が出て、かきまぜる手が少し重くなる。それでもかまわず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻しきれなくなる。しまいには鍋の中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。詩を作るのは正にこれだ。(第六節)
最後の「詩を作る」を「クリエイティヴィティの発露」に書き換えると、ものすごくしっくりくる。
二
抽象的な興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違いである。・・・この感興をなんらの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段はなんだろう。・・・なるほど音楽はかかるとき、かかる必要にせまられて生まれた自然の声であろう。(第六節)
草枕全編を通して、漱石がかたる「もの申す」的な芸術論が面白い。
冒頭の「智に働けば角が立つ・・・兎角に人の世は住みにくい。・・・どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、絵ができる」に、長いこと新鮮な心持ちがあった。それとまた通じる。
三
余は不図(ふと)顔を上げた。(第九節)
《ふと》の当て字に感動。もとい、漱石初の当て字ではないようだ。(漱石は当て字の天才)
四
汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。・・・人は汽車へ乗るという。余は積み込まれるという。人は汽車で行くという。余は運搬されるという。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。(第十三節)
電車が世の中で使われだしたときの「違和感」を肌で感じる。こういう新鮮な気持ちは大事ですね。