「全合成」という学問にはまりつつある今日この頃。お酒を片手に、この学問の歴史から展望を、夜通し語り明かす相手がほしい。
時代は全合成に逆風が吹きつつある。全合成のもつ意義が問われているのだ。
「どうしてそこまでお金と労力を費やして、天然物を作る必要があるのか」と。「そこに化合物があるから」では、もはや通じない。
Woodwardがキニーネ(quinine)を化学的に作り上げ、「全合成」は社会に認知される学問となった。1944年のことだ。時代の争点は、「はたして化学的な手法で、複雑な天然物は作れるのか」だった。Woodwardはこれに終止符を打つ。
30年以上が過ぎ、今度はメルク(Merck)社が抗生物質チエナマイシン(thienamycin)を全合成した。この偉業の背景には「化学的な手法で、天然物を供給しうるのか」がある。全合成が「目的」から「手段」に格上げされたわけだ。全合成の意義が強く取りざたされてきたのは、このあたりからかもしれない。
全合成の論文には、必ずといっていいほど「興味深い薬理作用」で「天然からは微量しか取れない」ので、「化学合成による供給が必須」という枕詞がつく。こうして研究の意義をダメ押ししようとするが、それらは往々にして建前に終わる。SchreiberのFK-506の研究のような偉業は、後にも先にも数少ない。
むしろ、自分としては、「アートとしての全合成」と声高に開き直りたい。そもそも、全合成といった基礎科学的なものに、即物的な成果を期待されても困る……と、そこまでは言わないが、それでもアート70・社会貢献30くらいでの分かち合いはしたい。
Woodwardの最後の仕事となった「エリスロマイシン(erythromycin)の全合成」を読んでいると、これは芸術品だと痛感する。その合成ルートには、実験者の「楽しんでいる気持ち」がにじみ出ている。まぎれもなく芸術家が作っているのだ。1981年の仕事だから、いまから20年以上も前のもの――「そこに化合物があるから」の時代だった。
いま、科学は社会に対する還元が要求される。それでいてアートも楽しみたい。これからは、その両者を共存させうる全合成標的を、しっかりと選ぶ必要があるのだろう。