サイモン・シンという、その世界では有名な作家がいる。科学をトピックに、非常に面白い作品を発表してきた。題材が題材だけに、退屈か難解なものに仕上がりそうだが、彼が料理をすると、不思議と面白い作品ができあがる。
サイモン・シンのよさを引き立てるもう一つの要素が、青木薫氏による翻訳だと思う。非常にスムーズな文章で、並の和書よりもはるかに読みやすい。
ひょんなことで、ちょっとした文章を翻訳することとなった。そこで、青木氏の模範解答をもとに、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』の冒頭を自分で訳してみた。
そうして思ったこと。それが、英文と日本文のリズムの違い。
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
サイモン シン
誤解を恐れずにいうなら、日本語の文章は、前後の脈絡と、修飾の関係をとくに重視した(強調した)文章だと思う。そのリズムの違いからか、英文を正直に訳しただけでは、どうしても簡素になりがちだ。生の翻訳に、原文の含意をくみ取った飾りを施すことで、文章がふくらんでくる。
なるほど、翻訳とは骨のいる作業だ。翻訳家に感服。
(原書)It was the most important mathematics lecture of the century. Two hundred mathematicians were transfixed. Only a quarter of them fully understood the dense mixture of Greek symbols and algebra that covered the blackboard. The rest were there merely to witness what they hoped would be a truly historic occasion.
(自分)それは、今世紀の最も素晴らしい数学の講演だった。二百人いた数学者は、釘付けになった。黒板を埋めるギリシャ語の記号や代数の式を完全に理解しているのは、そのうちの四分の一だけだ。残りの人たちは、歴史的な瞬間をこの目で見ようと、その場にいた。
(青木)その数学の講演は、今世紀でもっとも意義深いものとなった。会場にいた二百人ほどの数学者は、その場にくぎづけになっていた。とはいえ、黒板をぎっしりと埋めたギリシャ文字や代数式を全て理解できていたのは、そのうちの四分の一ほどにすぎなかったろう。あとの人々はただ、歴史的出来事に立ち会えるかもしれないという期待を胸にそこにいたのである。